太陽がいっぱい(1960年フランス)

ときどき観返したくなる映画がある。この映画もそのひとつ。

好きなシーンがある。金持ち男を殺し、彼に成りすますアラン・ドロンのもとに、その金持ちの友人が訪ねてくる。この友人もドロンは殺害、夜に死体を運び出すまでの一連のシーン。
ドロンに壺で殴られて、果物やチキンとともに床に転がるところから、さぁ友人役の死体演技が始まる。ドロンは酔っ払いを介抱するのを装って、かなりの巨漢である死体を外へ運びだそうとする。死体演技については、全身の力を抜けという監督の指示があったのだろう。役者はこれを忠実にこなし、四肢はもちろん顔の筋肉まで完全に力がぬけ、熟睡したバカでかい赤ちゃんのようだ。そののっぴきならぬ重量に苦闘するドロンの姿に手に汗握る。階下に下る途中、怪しまれないよう死体にタバコをくわえさせたり、話しかけたりするドロン、本当によくがんばってる。やっとこさ地上に降り、車に運び入れたと思ったら、いきなり頭からクラクションに突っ込みブーッと鳴らす死体。観客すべてが死体に対し「このドアホ!」と叫びたくなるシーンだ。

今回改めて観てみて、友人殺害直後、ドロンが部屋の窓から陽だまりで遊ぶ少女たちの姿を見ているシーンが印象的だった。無邪気に遊ぶこどもたちに陽の光が降り注ぐ。これもラスト・シーンと同じく「太陽がいっぱい」なワン・シーン。

この映画はカメラ・ワークが見事。さきの巨漢友人搬出シーンでの、螺旋階段下から見上げる構図で死体の手だけがぶらぶら動いていく図、ヨットでの横たわる死体の俯瞰図、荒海でのアラン・ドロンのもがき、など。そしてナポリの市場を散歩するドロンがイメージフィルムのように描かれるシーン。上着を肩にかけアンニュイな表情で人並みをすり抜けていくドロンのオーラに一般人が気付き振り返る、映画ロケ丸出しなのだが、これが無茶苦茶いい。

この映画、ドロンの一連の行動の周到さにずんずん引き込まれていくが、彼の内面や人物像はというと丹念には描かれてはいない。ナポリのシーンで魚市場に無雑作に並べられた魚や、死体とともに転がるチキン、断片的に挿入される風景など、なにか生の無常感が漂う中、ある殺人劇がドロンの悪魔的な美しさと共にただクールに描かれていく。

そして言わずもがなのラストシーン。待ち構える刑事の湯気を噴き出すくらい高潮した表情がなんともすごい。呼び出し電話に笑顔で向かうドロンが画面から消えたときに、ぐっとボリュームが上がる音楽と同期して、観ているこっちもぐっとくる心地よさったら。

 

さて、このあとドロンはどうなったか。茹でダコ刑事に「海パンをせめて着替えさせてくれ」とでも言って時間を稼ぎ、首尾よくドロンしていてほしい。