愛、アムール(2012年 フランス オーストリア)

老人が老人を介護する。今やどこにでもある、そしてこれからどんどん増えていくであろう状況。わが両親にもそういうときがあった。七年前に約一年の自宅療養の末、父は亡くなったが、母がその間ずっと介護していた。幸いにも、父は最期まで食欲はあったし、自分のことは自分で出来た。大柄な父親が最後まで自宅で生活できたのは、この奇跡と思えるくらいの体力がまだ残っていたから。そして、痛み止めさえ使えば、なんとか日常生活をやり過ごせた病であったから。ある朝、二階の寝室から自力で階下におりて小用をたしてから、居間のソファに座って、そのまま息をひきとった父は安らかな顔をしていたと看取った母は言う。

入院したくない、最後の時は自宅で迎えたい。そう思うこの映画の老婦人の気持ちは、だからよく分かる。僕もできればそうありたい。でも、それは実際には大変なこと。介護する側もされる側も、体力もだが気持ちがどんどん駄目になっていく。それが何より辛い。基本、愛情があってこそやっていけるのに、あるいは愛情があるからこそ、実際の生活の様々なシーンで、それがやりきれない怒りや絶望に変貌し、今までの人生を全否定しまいそうな思いにとらわれる。辛いことだが、老いと向き合うにはある種の知恵と割り切りと客観性が必要だと思う。

父が亡くなって、残された母は、介護から解放された安堵感を上回る喪失感や孤独感につぶされそうになり、もう生きていても仕方がない、というようなことを幾度となく言った。それが肉親でもなんでもない第三者だったら、「そうだね、辛いね」とただ聞いてあげることも出来たと思う。だが一番近い肉親ゆえ、なんとか親に前を向いてほしいと思い、ついつい建設的なことを意見した。こんな考え方もあるよ、と自分なりの考えを言ったりもした。でも、父を失くしたばかりの極限にあっては、そんなことはすべて遠いことにしか聞こえなかったのだと思う。僕は、自分の年齢や立場からしか考えておらず客観性を失くしていた。老人を無闇に励ましてはならない、という知恵がまずなかった。


この映画でも、両親のやっとやっとの介護生活ぶりを見かねて、これではだめだと、やはり娘が父親に意見する。だが、それは現実的なようでいて、両親にとっては少しも現実的ではない。彼等は意見や励ましを望んではいない。ただ、老いることの悲しみや辛さを聞いてほしいのだ。それをいくらかでも共有してほしいのだ。「他にどんな方法があるのだ?言ってみろ」、と気色ばむ父親。親と子、介護にあたっては価値観がなかなか共有しにくい。それぞれの立場をちょっと俯瞰して考えられたら、もう少し楽にもなれるのでは、と映画を観ながら感じた。

 

ハネケ監督の映画が好きで、ほとんどすべてを観ているが、何事もない日常の風景が無音でただ続く場面が挿入されることがよくある。小津映画にもそんな場面が出てくるが、たんたんとした佇まいなのに対し、ハネケ映画のそれは、日常に潜む狂気や脆さがいつでも飛び出してくるようなぬっとした怖さを突きつけてくる。この映画でも、老人が夜中に目が覚めて、暗い部屋がただ映るのだが、それがとても怖い。コードアンノウンの項でも書いたようにハネケの映画は本質的だからこそ好きなのだが、観ていると、老いていくことが怖いというより、むしろ生きていること自体が怖い気になる。生きてる以上、老いていく。ときに客観視し、ときに人生はアホらしいものと思い、その都度その都度、受け入れていくより他はない。