晩から朝までいい女

 

 姉が脳出血で突然に逝ってから、一年とひと月が過ぎた。将来は、子供の頃の話などをしながら、たまには音楽も一緒にできたらいいなと思っていたが、それは叶わぬこととなってしまった。ひとり残った母が不憫だ。折りにつけ、姉のことを思い出す。例えば、こんなことを。

幼いころ、姉はガキ大将的存在で、いつも近所の子たちを引き連れていて、僕もその中の一人だった。昼ごはんを食べ終えたら姉はすぐに外へ飛び出していくから、置いていかれてはならじと中腰でごはんを食べていた記憶がある。ある日の夕方、姉を皆と一緒に追いかけているとき、鉄条網で膝小僧を切った。そのまま、ある子の家の玄関に入って、水槽の中の金魚を見ていたら、膝から血がたらたら流れた。僕は姉に付き添われ、駅向こうの病院まで歩いて行った。もう夜で当直の内科医しかおらず、その医者が縫合してくれた。今でも右膝に残る傷を見ると、ふたりでとぼとぼ歩いて帰った夜道を思い出す。

姉は小学生のころからジュリーが大好きで、あるときは祖母と一緒にジュリーのコンサートに行き、最年少と最年長の組み合わせの客として会場内の話題になったそうだ。コンサートから帰って、祖母はジュリーに触ったと言って興奮していたが、姉は「おばあちゃんが触ったのはジュリーやないねん、全然関係ない人やねん」とそっと僕に耳打ちした。

 姉は小学六年のとき、児童会の副会長に立候補した。立会演説会が体育館であり、姉はけっこう場内を笑わせて演説していたが、最後の決め台詞で「朝から晩までいい女、晩から朝までいい女!井川○○子をよろしくお願いします!」と絶叫して、これがまたうけた。体育館でそれを聞いていた二つ年下で小4の僕は、「ああ、一日中いい女なんやな」と理解したが、先生たちは顔を見合わせて苦笑いをしていた。家でそのことを聞いた母も同様に顔を少し歪ませて笑った。

「朝から晩まで~」は最初から言おうと思ってたけど、「晩から朝まで~」は咄嗟に思いついた、とその夜、姉は言っていた。

ちょうどその頃、ある土曜の夜中に、それくらいの子供にはよくあることのようだが、宇宙の果てや死んだらどうなるかを考えて、頭がハウリングを起こして、ぐるぐるまわりだした。怖くて怖くてどうしようもなくなった僕は、横に眠る姉をつついて、「明日、不二家(レストラン)に行くんやな」と言った。この弟の必死な問いかけに対して、眠っていた姉は「う~ん」と言っただけだったが、それで僕は現実に戻ることができた。「晩から朝までいい女」に助けられたのだった。

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また、姉はいきなり無表情な顔になることがあって、それを僕が怖がると、その顔で追いかけてきたりした。これを実はちょっと楽しみにしていたのだが、姉はその期待にときどき応えてくれた。

 

 姉は中三の受験時、毎夜、自室にこもって机にかじりついていた。机の上だけスタンドを灯し、部屋は暗かった。ある蒸し暑い夏の夜、熱心だなぁと感心して、後ろからそっと机に近づいて見てみたら、姉は一心不乱にジュリーの似顔絵を描いていた。僕は見てはいけないものを見た気がして、静かに後ずさりして部屋を出た。あのときの姉の後ろ姿も、ちょっと馬面に描かれたジュリーの顔もただ不気味だった。

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 姉は高三のある日、カバンを持たずに手ぶらで帰ってきたことがあった。少しして駅からカバンを保管していると電話があった。姉が平然と帰ってきたこと、その知らせを聞いてすこしも嬉しそうでなかったこと、を今でも不思議に思う。

姉は数年前にギターを始め、女性デュオを組んでライブをしたり、介護施設の慰問で演奏したりしていた。ときどきはギターのコードの押さえ方を聞かれ、こう押さえたらもっと楽だよ、と教ると、ほんとラクやね、と嬉しそうな顔した。小学生のときに、学校代表でラジオで「小さい秋見つけた」を独唱したり、歌は小さい頃から上手かったが、ギターの腕前がめきめき上達したのには驚いた。

 

 数年前に、姉の家に行ったら、姉はまだ帰宅しておらず、近くに車を停めて姉を待った。 しばらくすると食材がいっぱいに詰まったリュックを背負って、自転車をこぎながら姉が帰ってきた。 車の中の僕にはまったく気づかず、姉はイヤホンで音楽を聴きながら、満面笑みを浮かべて目の前を通り過ぎていった。それは実に幸せそうな笑顔だった。あの夜、夫やこどもたちのために姉はどんな料理を作ったのだろう。

とにかくあの笑顔を見ることができて良かった。体は丈夫なほうではなかったので、いろいろと苦労もあったろうけど、あの笑顔のイメージでいつでも思い出すことが出来るから。

 

姉はこどものときは暴れん坊だったけれど、だんだん優しい性格になり、老人受けするタイプの女性になった。お年寄りからしてみたら頼りがいがあって、まさしく、「朝から晩まで、晩から朝までいい女」だったと思う。また逢う日まで。